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社会的人間

人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。

(太宰治/『桜桃』)

 

桜桃忌に書こうと思っていたら、どんどん日が経ってしまいました。

善い事と悪い事を判断するというのは実に難しいものであります。
BLMのデモについてのコメントも難しいものです。日本人ばかりの中で育ってきた土壌とは違うのでしょう。
控えめに意見を言っても埋もれていく情報社会です。だから、自分の立場を意思を表明するには大きな力がいります。学者にしても一歩離れたところから前提条件によって、、、ではなく、一本の柱に骨を埋める覚悟で行き、一点集中で突き進まないと並の天才では、本物と同じ土俵に立つことすらできません。といった、ロジックで政治参加し、意思表明するのとはまるで違うことを実感しております。

ヒロイックになって、それを土壌に生きていくこともできます。
求めるものがいるかぎり、それは喜びを与え、社会に貢献していることになります。どんな仕事であれ、仕事をしている間は社会的人間なのでしょう。但し、色々な社会があり、社会人となると狭義の社会になります。物を測る尺度もたかだか有限、数え上げられるほどでしょう。
狭義の社会から出ても、また人が集まれば社会が構築されるでしょう。アリストテレスのポリス的動物として完成をみようとする強い意志をもって出る人はいないでしょう。

弱きを助け強きを挫く、実存を語れる人間ではありません。弱きを知り、弱者として歩むことでの成功の秘訣を説いたのは野村克也監督だったでしょうか。そのように語れる人間でもありません。

 

オウムがあり、9.11があり、3.11があり、COVID-19があり、命の尊厳とはかなさを問う機会があり、それでも私たちは生きていて、、、
このように言葉でラベリングして、得体の知れなさを枠に押し込んだブラックボックスはパンドラの箱に玉手箱になるでしょうか。そうしなければ、前に進めないでしょうか。

 

⼈間のあり⽅を総合的にとらえて⾃分を磨いていくことを”魂のこと”をするというふうにいいたいと思います。神なしでも”魂のこと”をする場所を作る”新しい⼈”の決意で⼩説は閉じられるわけですが、僕にとっては”神なしでも”の部分が重要です。僕はずっと”信仰を持たない者の祈り”ということをいってきましたが、それは信仰を持つ可能性があるという意味を含んでいたわけですね。『宙返り』を書いて、そういう気持ちから切り離されて、本当に⾃由になった気がします。

(大江健三郎)

 

スピノザに影響を受けただけあって汎神論的姿勢(attitude)にあるようですが、ウィトゲンシュタインにしても永井均先生にしても痛みについての感覚は失いたくないように思います。

本ブログは架空の空間に住所を置いています。時々、現実のビジネスの話を、きれいごとばかりの問答をしたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友